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平倉山城址は、小谷村中土黒倉にある小谷城の跡、小谷村の文化財に指定されている。平倉山は、中谷川と姫川が合流する地点を臨み、山の東西と南側の三方がかなりの急坂で北側は馬の背のような尾根が続いているので、攻めにくく守りやすい地形になっている。その地形を活かし、山の8〜9合目あたりに三段になった城跡があり、それより南西へ50mほど下ったところには、城主の奥方や、これに仕える女性の屋敷跡(局屋敷跡)があったらしい。城の歴史は室町時代の頃、飯森盛照という人が小谷地方を治めていたといわれる。その後、戦国時代、飯森日向守盛春(春盛とも言われる)が上杉謙信側につき、辺り一帯を守っていた。折りしも戦まみれの戦国時代、上杉謙信と武田信玄がにらみ合う中、白馬村の一夜山にあった飯森城にいた飯森盛春は、武田信玄方の武将山県昌景に攻められ、小谷城に逃走する。武田側の小谷城攻めは弘治2年(1556年)に始められたが、深い積雪に妨げられた武田軍は、雪解けを待って再び攻め入り、遂に落城する。時に弘治3年(1557年)7月5日という。この落城にちなんだ、悲話、伝説、地名等は、北小谷の戸土の辺まで点々と残っている。塩の道「千国街道」に残る「貝の平(けえのびら)」は、上杉謙信の援軍が越後から千国街道を上ってこの地まで来たとき、貝を吹き、援兵の来たことを知らせた場所。そこから少し離れたところで、武田軍により落城させられた際の火の手を見て、上杉の援軍がじだんだを踏んで悔しがったそう。その場所を今でも「地団駄」と言っている。ちなみに中谷大宮諏訪神社の対岸にある玉泉寺の本堂の裏に飯森盛春の墓所がある。 |
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